卒業して早18年の歳月が流れてしまいました。卒業後故郷に帰った者としてはなかなか広島を訪れることもなく、ましてや小学校教員になってから殆ど部活・バレーボールといった世界から離れてしまっている者が、ここに文章を寄せるというのも気恥ずかしい所がありますが、こんな人間もいたっけなぁと軽く読み飛ばして頂ければ幸いです。
帰郷し、教員となって18年。その間お世話になった学校は6校になります。初任校は標高1000メートルの山の中、校庭に氷をはってスケートリンクができるような学校でした。当然冬場の体育はスケートでした。遠足が登山なんてこともありました。次の学校は地方の研究校。周りからは提灯学校といわれ、帰宅が10時を過ぎるのは当たり前、週末も良く学校に通っていました。仕事が多く忙しい反動か、先生方の結束はよく、忙しいわりにはよく遊んでもいました。集中して遊ぶことを覚えました。3校目は県南の僻地の小学校。最寄りのコンビニまで車を飛ばして1時間。宮崎駿監督のアニメ「千と千尋の神隠し」のモデルといわれている「霜月祭」で有名な遠山郷です。本当に一晩中踊っているんです。女性は面を付けて踊るわけにはいかないので、ただ周りで見ながらお酒をいただいていました。(ある程度のお酒をいただけるというのは、大学時代にバレー部で育てて頂いたおかげだと思っています。)4校目はマレーシアのペナンの日本人学校に赴任しました。3年間という期限付きの中で、のんびりと子ども達に向き合えた貴重な時間でした。また、全国各地から集まってくる派遣教員の方々との出会いも大切なもので、今でも交流が続いています。5校目はまたもや県境の僻地・高冷地の小学校。初めて高学年の担任をし、卒業生を送り出すことができました。また、村の事業として夏休みの一週間、子ども達とオーストラリアホームステイを体験してきました。オーストラリアも良いところです。
そして現在6校目、ろう学校にいます。松本の本校に週1日、あとは飯田分教室(松本まで高速使って車で1時間半)に週4日勤務しています。この2年間で車の走行距離が7万キロを超えてしまいました。私は幼稚部所属なので、毎日相手にしている子どもは3〜6歳。時に教育相談で来る子には1歳の子どももいます。みな、笑顔の可愛い元気な子達ばかりです。学生時代、部活とは別に地域の手話サークルに参加し、手話を学び、聴覚障害のある友人と交流があったことが、結局今の原点になっているように思います。大学で学んだ頃と現場の状況は大きく変わっているようですが、子ども達が自信を持って社会に羽ばたいていけるよう、子ども達と向かい合って取り組んでいこうと思っています。 |