平成19年3月末、京都府立海洋高等学校校長で定年退職を迎えた。退職後、初任者の指導教員として3校目で、現在に至っている。バレーボールとの出会いは高校時代の球技大会である。中学校、高校では陸上部に所属していた。
大学に入学するとすぐ、バレーボール部の先輩から入部勧誘を受けた。全くの素人で少し躊躇したが入部を決意。千田校舎の土のバレーコートで練習が始まり、ボール拾いばかりの日々が続いた。半年ぐらい過ぎた頃から上級生に手ほどきを受けるようになってきた。上級生との対人レシーブ練習のとき、回転レシーブが分からず、体を木偶の坊のように回転して、「ワシをアホ扱いするのか」とド叱られたことが鮮明に頭に残っている。福山分校での合同合宿等では、少しの時間ではあるがアタック練習をさせてもらうことがあった。「お前のアタックはボールに蝿が止まる」と酷評されても、アタックがコートに入ることが嬉しかった。アタックもレシーブも徐々に上達している実感が持てるようになった。一緒に泥にまみれ、汗を流した千田コートの同級生とは仲が良く、練習が終わった後、お金があれば一緒に正門前の酒屋で、サッポロジャイアントを立ち飲みした。
身長が176pで高さもなく、技術もないため期待されることもなく、公式戦にレギュラーとして出場した経験はなかった。だから、誰もやりたくない裏方を上級生の命令ですることになった。それは、広島県大学バレーボール連盟及び中国大学バレーボール連盟の委員長という大役だ。仕事内容は、連盟主催の試合の事前準備及び当日の運営、そして挨拶などである。また、広島県バレーボール協会の役員との打合せなどもあった。県協会の審判部長である県立体育館の西山先生には、連絡不十分や大会運営のつたなさをよく叱られた。昭和42年に日本でユニバーシアード東京大会が開催された。全国の各ブロックの学連委員長は役員として参加した。このことは大変良い思い出となった。
卒業後の進路は諸般の事情で教員を志望した。京都府に戻りたいと思っていたが、工業機械科の教員は採用が0であった。やむを得ず兵庫県と岐阜県を受験し、内定がもらえたのは岐阜県だった。
昭和43年4月岐阜県立多治見工業高等学校に機械科の教員として赴任した。右や左も全く分からない初めての土地で、新任教員ながら1年担任・バレーボール顧問となった。岐阜県の東濃言葉と塩分の濃い味には、慣れるまで苦労した。機械科の教員として生徒を指導するために必要である、旋盤等を扱う技能が付いていなかった。このまま機械科の教員としてやっていけるか、不安を抱くようになっていた。いつかは京都府に戻りたいと考えていたが、機械科の教員の採用はない。夏期休暇を利用して、広島大学の数学夏期講習を受講したり、玉川大学の通信課程の聴講生になったりして、数学の単位を少しずつ修得していった。昭和47年4月1日に岐阜県教育委員会から高二普数学の免許を交付された。昭和48年4月から数学の授業も担当した。
昭和46年に、他校の女子バレー部顧問でインターハイに出場経験がある保体の教員が転入してきた。その方が監督に就任し、私はコーチとなり生徒の練習相手をするようになった。昭和48年岐阜県2位になり初めてインターハイに出場した(岐阜県開催)。その後、オリンピック選手も育った。(法政大学、富士フイルム、岩島選手)
岐阜県で教員として生きていくためには、地域との繋がりが必要だと考え、地域の社会人バレーボールクラブ「多治見クラブ」に入った。週2回の練習で弱小チームだったが、自分が指導した卒業生や地元企業の大学卒が入り始め、急激に実力をつけていった。岐阜県代表として、2回東海大会に出場できた。岐阜県立多治見高等学校では二度、卒業生を送り出した。同僚にスキーとアルプス登山の魅力を授かったことも、岐阜での教員生活の大きな宝だ。
念願の夢が叶い京都府に採用された。昭和49年4月京都府立水産高等学校に数学の教員として着任した。バレーボール顧問となり、自宅で合宿させて部員同士の交流を図った。
昭和63年8月、京都府産業教育審議会より「21世紀を見越した本府の水産教育」について、最終答申が出された。その答申を受けて、30数億円の巨費を投入し、施設・設備の全面改築が行われた。校名も全国に先駆けて改名し、平成2年に京都府立海洋高等学校の開校式及び新学科での入学式が行われた。京都府教育委員会の指示に基づき、学科改編のための校内プロジェクトチームの一員として、教務部長の立場で尽力した。
平成6年4月1日に、指導部高校教育課指導第1係の数学の指導主事として京都府教育庁に赴任した。生徒指導・同和教育等の兼務職だった。平成6年11月に開催された「第4回全国高等学校産業教育フェア京都大会」の事務局員でもあった。
単身赴任のため、舞鶴で活動できなくなり平成7年に地元舞Iバレーボール協会を退会した。バレーボールから縁が切れてしまった。
翌年は、高校教育課指導第2係に異動し、生徒指導担当から教務担当に変わった。教員生活から行政マンとして行政の厳しさ、仕事内容の多忙さ・困難さに生活が一変した。3年間という短い期間だったが、多くの経験が出来、その後の人生に大いに役立った。
平成9年4月1日に京都府立宮津高等学校伊根分校(昼間定時制)に教頭として現場に戻った。
平成14年4月1日に母校であり地元の京都府立東舞鶴高等学校に校長(本校普通科単独校、浮島分校=夜間定時制)として赴任した。15年には京都府高等学校体育連盟副会長及び府高体連両丹支部長を兼ねた。この高校で「特色づくり」に力を入れた。100名を超える吹奏楽部が「全国高等学校総合文化祭神奈川大会」や「第1回大連青少年国際音楽祭」に出場、陸上部やボート部がインターハイに連続出場できたことは成果の一つだ。吹奏楽部の生徒を中心に服装、あいさつ、部活動、校外での活動が向上し、大学進学状況も目に見えて成果が上がった。ほとんどが地元舞鶴東地区の出身で、地域の協力と理解の上でこそ向上を図ることができたと強く感じている。
平成16年4月1日 京都府立海洋高等学校に3度目の赴任。生徒指導を含め大変な状況になっていた。中途退学や原級留意者の大幅な増加で、学校が機能していない状況だった。府教委からは「普通科高校の校長の後釜は誰でも居るが、海洋高校はお前しかいない」との任命だった。
◇ 学校の活性化と立て直しには
1 教職員の意識の変革
2 生徒の規範意識を確立して、問題行動の解消に努める。
3 生徒募集に全力を挙げる。
4 進路希望の実現
5 部活動の活性化
@ レスリング部の設立(レスリング指導者を生徒指導部長に兼ねさせた)
A ボ−ト部の強化
B 他の部は@Aの相乗効果を狙う
6 教職員の人事異動
@ 普通科教員の大幅な人事異動
A 専門教科教員は福井県との人事交流の実施
以上6点を中心に取り組んだ。
立て直しの成果は、問題件数、中途退学、原級留置の大幅な減少、そしてレスリング部、ボ−ト部等全国大会に出場と部活動が活発になり、ボランティア等も積極的に参加するようになった。希望進路も国公立大学にも一定数入学できるようになり、就職も100%実現できた。全力投球の3年間だった。
「教育は人なり」と言われるように、学校教育の成否は最終的にはその直接の担い手である教員に負うところが、極めて大きいものである。学校改革に情熱を持って一緒に頑張る良き人材に恵まれたからこそ、地域から、各中学校から、他高校から、学校が本当に良くなったと評価されるまでに変革できたのである。
今、第2の人生を踏み出し、大学でバレーボール部の一員として活動できたことは卒業後の人生の大きな礎の一つになっていると思っている。広島大学バレーボール部の益々のご活躍をお祈りします。 |