広島大学へ入学したのは1968年。当時は合格発表がラジオで放送され、翌日には新聞に氏名が掲載された時代でした。合格発表後の3月、どうしたわけか専門課程の福山分校バレーボール部から「春期合宿参加」のお誘いをいただき、まだ入学式も済ませていないのに、喜び勇んで実家のある呉から福山へ一人で参加しました。新幹線も無いころだったので、新入生を心配した関
隆三先輩(16期)が駅まで迎えに来てくださいました。合宿期間は2〜3週間だったと記憶していますが、相当なる緊張感と厳しいトレーニングだったのか疲労感も極致に達したころ脚のキズが痛みはじめました。実はその年の1月「股関節炎」で入院生活を送っており、実技試験を受けることさえ不安な状態だったのを隠して参加したのです。最後まで合宿を終えることは出来ず途中で実家に舞い戻ることになりました。この先暮らすであろう福山で大学生活を体験させていただき、先輩たちの熱い思いを十分に感じていた私は情けなくて涙が出ました。帰るときも関先輩に見送っていただき時間待ちのため駅前の喫茶店「白ばら」でケーキをご馳走してくださったことをはっきりと覚えています(あの喫茶店は今も駅前にあるでしょうか?)。関先輩、覚えていらっしゃいますか?あの不甲斐ない後輩は私です。そしてこんな私を下宿に泊めてくださった若林文子先輩(18期)にもこの紙面をかりてお礼申しあげます。どうも有難うございました。
我々、教育学部高校教員養成課程体育科55名は千田町本部キャンパスの教養部に1年間、福山分校の専門課程に3年間在籍するコースでした。何故か入学式は分散で学長式辞は教室のスピーカーから流れてきましたので、学長の名前もお顔もよく覚えておりません。正門の扉は封鎖され大きなスローガンが掲げられていました。脇の狭い補助門から出入りすることが当たり前で、さらにその隣には座り込むための小屋が常設されていました。学内のあちこちでも教室がバリケード封鎖されたり、森戸道路では連日学生がデモを繰り返していました。秋には徐々に講義も減り、学生代表と教授陣との大衆団交が続く毎日でした。こんな状態でしたが思い出深いのは日が暮れてもなお(?)電気をつけてボールを追いかけたバレーボール部での活動です。体育館は無く、1コートしかないグランドで汗と泥にまみれ、初心者の私はパスやトスを失敗するとラッキーなことに風のせいにすることができました。また部員は教育学部だけでなく法学部、理学部、工学部などからも個性あふれる方々が集まって来られ、いつも笑わされていた私は「笑いすぎると顔がシワだらけになるぞ」と脅され、笑わないようにしようと本気で考えていました。
その後、半年遅れで福山分校に帰り1972年にめでたく卒業できたわけですが、福山でもより思い出深い大学生活を送ることができました。なにしろ全学年をあわせても150名ほどの体育科ですから、バレーボール部の女子チームは部員10人足らずを余儀なくされます。1人でも故障すると試合出場が危ぶまれ「自分一人の身体ではない!」が合言葉になっていました。試合形式の練習もままならない女子チームには男子チームの協力がどんなに有難かったことか・・・試合直前のコートでも男子チームがどこからか現れボール拾いを手伝ってくださったこともあります。また最近の試合場面ではコーチがパソコンを持ってベンチに座り様々な情報を監督に伝えるシーンは珍しくありませんが、福山分校チームは当時から試合経過を記録するために、小型のテープレコーダーをベンチに持ち込みマイクに向かって叫んで(?)おりました。確か西村清己先生の発案だったと思いますが素晴らしい御知恵だったと今になって感心いたします。また西村先生は小人数のチームだが何でも経験させてやろうと西日本大学選手権や中国五大学大会だけでなく近畿インカレや全国大会(フリー参加?)にまで遠征し、コートが4〜6面も取れるような東京体育館での大舞台も体験させてくださいました。田舎から東京へはじめて行った若い我々は“都会の人はどうしてあんなに早足で歩くんだろうか”と不思議に思い一様に目を丸くしたものです。
福山分校ではバレーボールだけでなく教員になるための勉強にも励み(?)ました。附属中学校での集団教育実習、創作舞踊発表会、大山スキー、北木島水泳、蒜山登山、オリエンテーリングなどの実習も頑張りましたが、恒例行事の大学祭や芋大会、七起杯も愉しく過ごしました。(私は寮生活をしていましたので)夜中にお酒に酔って高志寮(男子寮)から清明寮(女子寮)へ集団で押しかけて庭で話しましょうと迫る“ストーム”の皆さんにバケツの水をお見舞いしたことなどが懐かしく思い出されます。高志寮の皆さんごめんなさい。
総合移転という時代の変遷とともに、思い出多いあの広かった福山キャンパスも建物がすべて無くなってしまいました。今では記憶をたどることも難しく当時を知る私たちには寂しい限りです。
こんな我々第20期生は「大学紛争という貴重な体験をした今の気持ちを忘れず何事にも積極的に取り組もう、卒業してからも交流を深めよう」と同期会を「はたちの会」と名付けました。故郷に帰って教職に就いた仲間たちとは今でも熱い思いで結ばれていると確信しています。そんな我々ももうすぐ60歳定年を迎える団塊の世代です。スローライフを如何に有意義に過ごすか、大きなテーマを模索し実行しながら毎日を過ごしていきたいと思っています。
私は現在「財団法人廿日市市文化スポーツ振興事業団」に所属しています。これは広島県西部のまち廿日市市(はつかいちし)より公共施設のスポーツセンター、文化ホール、美術ギャラリーの管理委託を受けている団体です。スポーツセンターから文化ホールへ異動して6年になりますので今はバレーボールとは全く縁のない生活です。週1回のトレーニングジム通いでかろうじて運動をしていると自分に言い聞かせていますが年相応の習慣病はなかなか解消されず困っています。「はたちの会」の皆さんはどのようにお過ごしですか?
今年5月、「2005年度広島大学体育会バレーボール部報告書」に掲載された東広島市御薗宇小学校竹井秀行校長先生の講演報告を拝見しました。「はたちの会」の一員としてとても懐かしく日頃のご無沙汰をお詫びするつもりの軽い気持ちで同窓会事務局へメールしましたところ、橋原孝博先生からこのような原稿依頼を受けた次第です。諸先輩をはじめ後輩の皆様もぜひ気軽にメールをしてみてください。必ずや私のように機関誌に近況報告が掲載されること請け合いですよ。
これからも広島大学体育会バレーボール部の益々のご発展を廿日市の地より祈念いたしております。拙い文章ですがこのような機会を与えていただき有難うございました。そしてこれからもよろしくお願いいたします。 |