コートの仲間第19号 OBからの一言


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出会い
19期 安東 裕二
 教員生活も残り数ヶ月となった今、振り返ってみますと、還暦まであっという間だったというのが実感です。橋原君からの原稿依頼の声を聞いて、学生時代が懐かしく思い出されました。これが同じ釜の飯と言いましょうか同窓の良さと言うか、いいですね。
 私とバレーボールの出会いは中学で、実は中学に入るまでバレーボールという競技を知らなかったし、特に興味もありませんでした。ところが、中学入学時に2 歳上の兄から野球部への入部を拒否されて、バレーボールを始めました。当時は9 人制で体育館もなく、ユニフォームはランニングシャツ、チームの強さを図るバロメータは色の黒さと言えました。私の臼杵東中は男女とも県の名門チームで、私の1年次は男女県大会優勝、2年次は、西中に破れましたが、西中が県優勝、3 年次は準優勝でした。そして、臼杵高校へ入学と同時に6 人制へ移行したと思います。
 女子バレーボールの監督さん(長嶋先生〈7期〉、三宮先生〈12 期〉)の勧めで広大を受験し、進学することになりました。1 年生の千田キャンパスのオープンコート、福山の天井の低い体育館、お世話になった西村先生、諸先輩、後輩、当時のことが懐かしいばかりです。貧乏学生で練習着もボロボロになるまで我慢しました。まぁほとんどの仲間がそんな状況でした。今の学生には信じられないと思います。60 歳にして人生やり直せるなら、学生時代に帰してほしいと思います。まぁ何となくバレーボールをしていたのかな。
 そんな私がバレーに熱中したきっかけは、教員になってからです。それは、森谷先輩からの教員チームへの誘いです。仕事を終えて毎週尼崎から神戸まで練習に参加しました。10 年間続け、5 回の全国制覇を経験することが出来、私のバレーを築く時期でもありました。なぜ続けられたかは、バレーの師とする先生との出会いでした。その方は1 つ上で、東西対抗のエースとして活躍され、指導者としても県大会優勝監督でもありました。さすが高校、大学でエースとして頑張ってこられた先生だと感心しました。その先生と私、そしてもう一人の同期教員仲間の3 人の関係は、他校の先生方には信じられない関係でした。たとえば、明日リーグ戦で対戦するのに練習試合を実施するという形態でした。3 チームが自転車で行き来出来る距離にもあったからです。切磋琢磨した当時がバレー人生の中で一番充実していた時期だと思います。教員チームの諸先輩方からの教えは、仕事をしっかりして、快く練習に参加させてもらえるように、そして、よく飲めとのことでした。教員チームの仲間としての絆が強まり、仲間でよく練習試合をしました。そのことでチームが強化されたと思います。教員チームが兵庫のバレーを支えたと言っては過言かもしれませんが、県大会優勝監督を多く輩出したのも事実です。若く、突っ走っていた時代、そして、教員としての充実期に入っていた時は、教員生活を生涯生徒と共にバレーを通して終えたいと考えていました。しかし、家庭の事情で西播磨地域へ転居した時から、今までのバレーとは違う環境で勤務することになり、すっかりバレーを忘れ、何かの間違いで管理職へと進むことになり、間もなく教員生活を終えることになります。自分で教員生活を評価するなら、可もなく不可もないといったところです。残りの人生もおそらくそうなると思います。なるようにしかならないと思う今日この頃です。

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