ある日突然、一本の電話がなりました。着信を見ると橋原先生の携帯からでした。OB会や国体の練習試合等でお世話になったこともあり、早速電話に出てみるとそれは橋原先生ではなく、現役の谷優香(香川出身)でした。内容はコートの仲間の原稿を書いてくれというものでしたが、さすが橋くん(すいません)一本取られたなって感じでした。原稿を書くのは苦手な方ですが、諸先輩方や後輩たちも頑張って毎回素晴らしい同窓会誌を完成させておられるので、今回思い切って引き受けることにしました。
私は千田→福山→西条とすべての広大を知る年代です。それに伴い、アパートも三回引っ越しました。千田では西旭町のぼろアパートでしたが、福山では福山競馬場の南にあるグレースミューチャル、西条では古島ハイツといった当時は新築のアパートでした。引越は結構大変でしたが、今思えばなかなか良い経験をしたと思います。
中でも、福山の時代の思い出は今でも強烈なものがあります。まずは挨拶。遠くに先輩を発見したらなりふり構わず「ちわっ」「ちわっ」「ちわっ」。時には挨拶をした後に、さっきのは何部の誰だろうと考えさせられる場面も多々ありました。また、バレー部は本部から福山に来た時は坊主にしなければならず、2年生でも下級生がいない状態でした。つまり2年間下積みをさせていただいた?ということになります。辛かったのは成人式でした。故郷に帰り成人式に出席したものの、一人だけ坊主頭のスーツ姿だったので当時はみんなから「広島でなんか悪いことしたんか?」って言われたこともありました。
福山での生活は本当にバレーボール中心で、…突撃隣の晩ご飯ならまだ良いのですが…さて寝ようかなと思った時に、突如先輩が一升瓶を提げてやってくる「夜襲」、他県人なのに招集がかかる県人会、(中略)、走魂トレーナーを着て妙見までランニングをし、その後頂上まで競争など、今思えば本当に懐かしいです。また、授業では様々な実習がありましたが、特に北木島での水泳合宿では遠泳の時にキャップの横に砂糖飴を入れて疲れた時に舐めるはずが、いざ食べようとすると溶けて無くなっていたことや、隊列を組んでかけ声をかけることが泳ぎよりもしんどかったことなど、今でも鮮明に覚えています。福山は3年の秋まで1年半でしたが、後々の人生でとても良い勉強が出来たと思います。
さて、西条の大学移転に伴い、バレー部も一つになる年を迎えました。当時主将を務めていたということもあり、空田会長の下、同窓会規約の見直しから今後の運営計画まで、同級生を始め、多くの諸先輩方の知恵をお借りしながら、何とか新しいスタートを切ることが出来ました。それから現在に至るまで、毎年学生諸君が中心となりコートの仲間の制作やOB
会の開催など、本当にご苦労なことだと思います。ただ残念なことは、OB 会に出席した際に、年々出席者が減ってきている現状を知ったことです。どうかOB
の方々、これからの日本の教育を担う学生たちに何卒ご指導、ご鞭撻いただけますよう、大変お忙しいことは重々承知の上お願い致します。
最後になりましたが、今後とも広島大学バレーボール部が大きく躍進し、それに平行して同窓会が毎年盛大なものとなりますことを祈願し、終わりにしたいと思います。 |