現在私は、長崎県の最北端にある島、対馬にある対馬高校に勤務しています。対馬という島は、日本で最も韓国に近い島で、韓国までは高速船を使えば2時間程で行くことが出来ます。つい先日も修学旅行で韓国まで行って来ました。ちなみに、長崎県なのにフェリーは福岡行きしか出ておらず、福岡まで5時間かかります。また、最近は原油高の煽りを受け、ガソリンはなんと!!176
円もします。ガソリンが日本一高い所ということで、最近ニュースに出ていたような…。
対馬の紹介はこれくらいにして、近況報告ということで本題に入りますが、私が大学を卒業して6年が経とうとしています。時が経つのは早いなと感じながらも、まだ6年しか経っていないのか…というのが本音です。と言うのも、教員になってからの一日一日は、大学生の時に過ごしていた日々よりも遥かに濃く、何より常に責任が付きまといます。大学生の時のように(私をご存知の方は知っておられると思いますが)、(中略)、部活の時間になれば練習で汗を流し、その後、流した汗の量以上の酒を飲みに行く。今はそんな自由な生活は出来ません。現在2年生の担任として36
名の生徒を預かり、81 名の寮生の世話をする舎務部という分掌の主任も任せられています。もちろん、部活動では男子バレー部の顧問として、15 名の生徒の指導に汗を流しています。3つの集団を預かる責任は非常に重く、夜中や休日に保護者からの電話を受けることはよくあります。そういう日々を送っていますが、不思議と教員を辞めたいと思うことはなく、むしろ毎日の生活を楽しく感じています。責任を与えられることで、自分自身が成長出来、責任と愛情を持って生徒と正面からぶつかることで、生徒が成長していく姿を目の当たりに出来ることが、教員としての最高の幸せではないかと感じているところです。
話は変わりますが、大学を卒業して同期の仲間や先輩・後輩とはほとんど会う機会がないので、この場を借りて大学を卒業してから現在までの経緯を簡単に報告します。大学を卒業して1年目、非常勤講師として猶興館高校という所で働きました。そこでは、現在長崎県バレーボール強化委員長をされている瀬尾眞一先生(長崎県出身の広大現役生は知っていると思います)との出会いがありました。非常勤で、週に3日間授業の時だけ出勤ということだったのですが、瀬尾先生から「毎日朝から出勤して職員朝会に出て、学校全体の動きを見ておけば、採用試験に合格した後絶対に役に立つ。空いた時間は教官室で採用試験の勉強をしろ。」と言われ、毎日授業のない日も学校に行き、勉強をしました。もちろん給料は授業をした分だけで、月に7〜8万円程度。夏休みは毎日朝7時半から夜7時半まで瀬尾先生と女子バレー部の指導、授業がないから給料は0円です。しかしながら、瀬尾先生やいろんな先生に鍛えられ、その年の教員採用試験で合格することが出来ました。今振り返ると、その1年間で私の教員としての土台が築けたのだと思います。
2年目、新規採用として赴任したのは私の母校でもある佐世保南高校。私は女子バレー部の顧問を任されたのですが、その時男子バレー部の3年生にいたのが音丸龍一郎くん(現在広大バレー部4年)、2年生にいたのが井上周二くん(現在広大バレー部3年)です。この時の2年生は中学時代日本一になった生徒が集まっており、その年の春高バレーも長崎県代表として出場しました。前に書いたように私は女子の顧問だったのですが、男子バレー部の監督・コーチ(コーチは私の高校時代の恩師)から、「お前は若いから、勉強のために春高について来い。」と誘われ、赴任1年目にして春高の会場に連れて行ってもらいました。しかも、結果は優勝!全国制覇!!高校時代憧れだった代々木のセンターコートを目の前に見ることが出来、代々木の雰囲気を肌で感じ、さらには優勝の感動を味わわせてもらいました。本当に幸運だったと思います。佐世保南高校に3年間勤務した後、現在の対馬高校に転勤となり現在2年目で前述のような生活をしています。
6年間を振り返ると、本当に自分は運が良いのだなと思います。素晴らしい先生方、様々な生徒との出会いによって、教員としての生き方、バレーボールの指導方法、そして、自分の未熟な部分を教えていただき、成長出来たのではないかと感じています。今後も謙虚な姿勢を忘れず教員として成長していきたいと思います。
最後に、現役生に一言。社会人は忙しく、自分の趣味を見つけたり、仲間と旅行に行ったりということはなかなか出来ません。大学時代には自分でバイトしお金を貯めて、いろんなことにチャレンジし、いろんな経験をして下さい。いろんな経験を通して自分自身が成長出来るはずです。ただ、バレーボールや勉強をおろそかにしないようにして下さい。遠い対馬の地より、今後の広大バレーボール部の活躍を期待しています。 |