毎回紙面を通して学生時代を懐かしんだり、現役・同窓生の活躍を楽しめる『コートの仲間』ですが、今回は逆に原稿依頼。どうやら同級生の合田君が断ったため、私に回ってきたようですが、せっかくですから少しページを頂いて昔を振り返ってみたいと思います。
<大学時代>
生まれも育ちも“島”である私が初めて“本土”に暮らし始めたのが昭和56 年。大学に入学と同時にバレー部に入部し、4 年間の学生生活が始まりました。千田町キャンパスでの1
年を終え、2 年次以降は福山分校での生活となる訳ですが、2 年次の1 年間は、まさに不安と恐怖心を抱えながらの生活でした。(中略)
また、福山分校ではまず2 年生は坊主頭にしなくてはならない不文律があり、それまで長髪やパーマ頭だった同級生6 人が一斉に坊主となり、お互い顔を見合わせ笑いました。(人相の悪い私は“網走”としばらく呼ばれていました)妙見までのランニングで始まる3
部練、福岡教育大学での春合宿など、高校時代とは比べものにならないきつさでしたが、“ワンマンレシーブ”の怖さ?から練習を休んだのは、3 年間で祖母の葬儀で1
日だけだったと記憶しています。取り残した単位『日本国憲法』の試験を受けに、広島まで新幹線で往復し、クラブに間に合わせたこともありました。とにかく下級生にとって何が怖いかと言えばワンマンレシーブでした。ミスやだらだらしたプレーが続けば「カゴッ!」(ボールカゴのことでワンマンレシーブの始まりを意味します)
とキャプテンが叫びます。その後に「○○入れ!」と誰かが指名されます。それはもう緊張の一瞬です。(多くは練習終了後でしたが、時には練習途中でもありました)同級生では上田耕造君が一番ワンマンの数が多かったように思います(笑)。僕も一度だけワンマンを受けたことがあります。練習も終わりにさしかかったころキャプテンの田野さん(国際審判員で活躍されています〈32
期〉)が例によって「カゴッ!」と叫びました。“あれっ今日はそれほどまずいプレーもなかったのに誰が?”と思っていると「井上!入れ!」とご指名。“なんで?”と思いましたが、逆らう訳にもいかず、ワンマンが始まりました。数分たった頃田野さんの手が止まり、終わりかと思っていたら「井上、なんでワンマンされているか分かるか?」と聞かれ、正直に「分かりません」と答えると、再度ワンマンが始まりました。スライディングをしながら“なんで?今日何かしたっけ?”と思いながらも見当がつきません。田野さんの手が止まり、これで終わりかと思いましたが、田野さんは再度「なんでか分かるか?」と聞いてきました。それでも理由の分からない僕は「分かりません」と答えました。するとまたワンマンが続けられました。こうして3
度のワンマン後、田野さんは「お前はサーブを打っているときに、○○とパチンコの話をしとったやろ。だからや」“えっ、それだけのことで…”と思いましたが、こうしてワンマンが終わったのです。練習着の胸は破れ、血がにじんでいました。後の飲み会のときに、そのワンマンの話になり田野さんは「あぁあれか?あれはお前が今まで一度もワンマンを受けたことがないから、いつかやってやろうと機会を窺がっとったんや」とサラッと言われました。へっそんな?
田野さんと言えばこんな思い出があります。中四国大学選手権大会の時です。決勝の相手は松山商科大学でした。1 セット目12 対8(当時は15 点先取)と4
点差リードされ、ピンチを迎えていました。タイムアウトを取った田野さんは「まず2 点取ろう。そして2 点差になれば、ひっくり返せる」と言われました。不思議なものでそう言われると、なんとかなる気がしてきました。そして本当に2
点差とし、そこから逆転でセットを奪いました。続く2 セット目を取られたセット間に田野さんは、体育倉庫に部員を集めました。円陣を組み田野さんは「どうしてもこの試合勝ちたい。勝たしてくれ」と周りに声を掛けました。そして「そのために俺はこれからお前らを殴る!」“へっ?”と思った次の瞬間。バシッ、バシッと次々と平手打ちをされました。(当然田野さんを除く5
人です…後で「顎がはずれたか思った」という同級生の話がありました。)なかなか倉庫から出てこないことを不審に思った審判が覗きにきましたが、田野さんは何事もなかったかのように振る舞い、私たちは3
セット目のコートに入りました。これで気合いが入らないはずがありません。終始リードのまま最後は相手センターエースがスパイクをミスし、優勝することが出来ました。このようなこともあり、(多少記憶違いのところはあるかもしれません)一番思い出になっている試合ですが、その体育館に倉庫が無かったら、田野さんはどうしたでしょう。まさか公衆の面前で殴る訳にはいかず、おそらく体育館に入る前から、“もし試合の流れが悪くなるようだったら、選手を殴ろう”
とあらかじめ場所まで探していたのではないかと思います。やはり田野さん…。
<教員となって>
大学時代にバレーを経験し教員になった多くの人は、バレー部を持ちチームを強くしたいと思うことでしょう。私もそうでした。最初の赴任校は、私の住んでいた島の隣の島の小さな高校で県下でも有数な荒れた学校でした。運良く女子バレー部を持つことになりましたが、生徒の様子に愕然としました。スカートをはいたまま体育館に来る生徒。土足であがる生徒。お菓子を食べながら来る生徒…とてもバレーをする姿ではありませんでした。そういう彼女らを説得すると「試合なんか出たくない。お金かかるし」「しんどいのはイヤ」など愚痴や不満が返ってきました。それでも何とか指導や練習をしましたが、次々と生徒が辞め、最終的には2
名になり、その後は全く練習になりませんでした。翌年新入生が入りましたが、それでも全員で5 名。なんとか試合に出してやりたく、ママさんバレーの手伝いでバレーをしたことがある生徒を勧誘し、ようやく試合に出られる人数が揃いました。経済的に豊かでない家庭も多く、ユニフォームは、一番安い白地に黒の単色で、下は中学時代のブルマをはかせました。7
人乗りの車に生徒6 人、ボール6 個を積んで初の公式戦に出場しました。3 チームのグループ戦でした。1 試合目は歯もたたずボロ負けでした。2
試合目は1 セット目をとられましたが、2 セット目をなんとか取り、勝負はフルセットになりました。しかし終始リードされ、12 対8 になった時2
度目のタイムアウトを取りました。4 点差…ふと浮かんだのが田野さんの言葉です。大学時代のあの試合と同じ…「まず2 点取ろう。そして2 点差になれば、ひっくり返せる」そう言って生徒を送り出しました。するとどうでしょう。本当に2
点を取り、そこから逆転し勝ったのです。生徒は大泣きし抱き合って喜びました。思わず僕も泣いてしまいました。結局その後、部員不足でバレー部が休部になったため、それが最初で最後の公式戦となりました。
その後柔道部の顧問になり生徒と一緒に練習をし、初段・弐段を取りました。次の2 年で野球部の部長・監督をしました。曲がりなりにもスコアブックがつけられるようになりました。初めての公式ノックでは三塁手に打つはずが、緊張のためチップとなり1mしか飛ばず大恥をかきました。次の勤務校では授業で海洋スポーツがあったため、指導のために(?)自ら小型船舶の免許を取り、マリンジェットやウェークボード、ボードセーリングを楽しみました。ソフトボールに没頭した時期には、審判資格も取りました。(現在は失効ですが)
これらはすべて20 代から30 代前半のことです。若いからこそ出来たのだと思います。30 代半ばからは、町の体協理事や体育指導員となり、生涯スポーツの普及のお手伝いをさせて頂きました。また子どもの通う保育所や学校の保護者会長やPTA会長、子ども会の会長もしました。この原稿もそうですが、基本的に“頼まれたことは断らない”
性格が災い(?)しているのかもしれません。
大学のバレー部から『コートの仲間(福山分校時代は『勝栗』)』が送られて、同窓生のバレーの活躍を読むにつれ、羨ましく、一体自分は何をやっているのだろうと感じた時期もありました。しかし、人は与えられた環境の中で自分を活かすしかありません。専門外の種目の指導や経験をしたからこそ、今の授業や仕事の役に立ったり、幅が持てるようになったりしたのだと思います。
<現在>
母校勤務も含め、島の学校に3 校19 年勤め、4 年前より本土勤務となりました。(住んでいるのはやはり島です)現在は東広島市の河内高校という山間にある高校に勤務をしています。クラブは陸上部をのんびりみています。
私生活ですが、現在私の住んでいる島には6 人制バレーボールのリーグがあります。『麦酔会』『ビギナーズ』などのチーム名から分かるように、バレーを楽しむという感じです。男子のバレー離れが進んだ影響もあり、平均年齢が60
歳近いチームもあります。私は3 年前から中学・高校時代のバレー部のOB でチームを作り参加しています。(ちなみに私のチームはSASSO:サッソ→イタリア語で石とか砂利という意味です)46
歳の私が、若い方から2 番目でエースですから、大学時代の私を知っている人からすれば、だいたいどんなチームか容易に想像出来るでしょう。それでも春・夏2
回のリーグで3 位以下になったことはありません。監督から「全勝優勝したら広島の流川で好きなだけ飲ませてやる」と言われ、皆張り切っていますが、試合の翌日は必ず、肩痛・腰痛・筋肉痛です…(あっ筋肉痛は翌々日)最後に広大バレー部への援助金や同窓会費も滞りがちな私がやたら紙面をとってしまい恐縮ですが、広大バレー部、および同窓会の今後益々のご活躍・ご発展をお祈りします。 |