コートの仲間第23号 OBからの一言


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卒業後のバレーボールとの付き合い
37期 安野 洋一
 毎年この時期になると現役部員から秩父宮杯全日本バレーボール大学選手権大会の日程が葉書で送られてきます。 ここ2,3年は比較的マイペースでこなせるようになった仕事の合間に時間を作り、広大体育会関東支部の藤松支部長をはじめ大先輩の方々と手書きの垂れ幕を持って我が母校の応援に行くのは非常に楽しみであり、かつ私の年中行事にもなっています。 先ずは、全国ベスト8 に進出された女子選手の皆さん、そして橋原部長、長谷川監督、河村コーチ、本当におめでとうございます。 また、男子はエースの練習中の怪我で入院までするアクシデントに見舞われる中、少数精鋭が故にポジショニング、フォーメーションの大変更を余儀なくされ、リーグ戦で涙を呑んでしまいましたが、和泉監督と男子選手諸君、たいへんご苦労様でした。更に磨きをかけて来年の全日本インカレでもお会いできる事を心より楽しみにしております。
 さて、大学卒業後の長岐においてバレーボール関係者で「ある・なし」に分類すると、後者の「なし」に括られるであろう私の携帯電話に突然、62期森本さんより(その後で男子立花君より)「コートの仲間/ OB からの一言」の執筆 依頼、全く思いもよらず。 執筆されるほとんどの方が教育界でご活躍されていらっしゃるOB・OGであるのと対照的に、私は卒業後のバレーボール経験についてはソフトタッチにならざるをえないのを承知の上、敢えて元部員1名が卒業後に少し距離をおいたバレーボールとどのように付き合っているのか知っていただく良い機会だと思い紙面を割いていただくことにしました。
 その前に、我々の年代についてお話させていただきますと、私が現役当時は教体(福山)と本部(千田)の二つ(霞キャンパスの医体もある)が全日本大学学生連盟(学連)に加盟しており、1大学で同種目2体育会部が登録されていたのは全国で唯一の例外でありました。 現バレーボール部・部長を務められている橋原先生は私が3年生の時に部長(当時の本部)に就任され今に至っていらっしゃいます。 私の同期(37期)が大学卒業したのが平成元年(大学時代は「新人類」、会社内では「バブル世代」と言われた年代で、近年ではアラフォーと呼ばれておりましたが、昨今40半ばを過ぎ、それも卒業してしまいました)ですので、平成の年号は私のサラリ−マン人生と同じ 年齢を表しております 。 また、この「コートの仲間」は、教体(福山)と本部(千田)が西条キャンパスに統合された平成2年に創刊されておりますので、同年代前後のOB・OGの方々の社会人人生とほぼ同じ年輪を重ねております。 昨今、全日本レベルのTV中継を見ていて感じますが、全日本監督コーチ、そしてテレビ解説者などで活躍しているのが同年代で、iPadデータバレー真鍋政義女子監督は二つ上で(広大34期と同学年)、彼と大阪商業大学全盛期時代を築いた全日本男子監督の植田辰哉(35期)と中垣内祐一コーチ(38期)、解説者河合俊一(34期)、中田久美(36期)、大林素子(38期)と活躍しています。
 さて、本題の私の卒業後のバレーボールとの付き合いについてお話させてください。 私は学校教育学部卒業生ですが、同学部の多くの同級生が教師になっていく中、私は一般就職しました。入社後2年間は激務の中で過ぎ去りましたが、その間はバレーボールに触れるチャンスは皆無でした。しかし、3年目の春に海外赴任を命ぜられ赴任地香港に住むようになってバレーボールをする機会に恵まれる様になりました。海外の主要都市には日本人会倶楽部が設置されており、その下にスポーツサークルが組織化され、日本人駐在員の体力維持、交友・憩いの場としての機能を担っていました。 当然バレーボール・サークルもありました。電機・自動車 メーカー、流通、アパレル、銀行、領事館員、日本人学校の先生、留学生など多種多様な業界/職種の仲間で一緒にやるバレーボールは、全く大学時代のバレーボールとは違い、只々「楽しい」。そして日本人同士(米国人、英国人も混じっていたが)の連帯感がとても高まります。 バレーボールで汗をかいた後に酒を酌み交わしながらの晩御飯(殆ど広東料理)は、とにかく、「最高」の一言につきます。ほとんどの方が中国の郎平(ロウヘイ)をご存知だと思いますが、彼女の旦那さんが私と同じ会社で働いていたので奥さんに是非とも日本人会バレーボール・サークルに遊びに来てくれとお願いしたところ、本当に来ていただき、一緒にバレーボールができた事も良い思い出の一つです。因みに彼女は1980年代前半の世界No1アタッカー(「鉄のハンマー」と形容された)でロス五輪金メダリスト、その他ワールドカップと世界選手権で三冠を達成し、イタリアのプロチーム、米国と中国の女子ナショナルチームの監督を歴任しました。こうして香港日本人会でバレーボールを3,4年間した頃のある日、バレーボールをいつもの様に楽しんでオープンからアタックしてジャンプから着地した瞬間です。高校時代の古傷(ヘルニア)が出てしまい仲間に両肩を支えてもらいながら病院に担ぎ込まれ、それから又もやバレーボールとは縁遠くなってしまいました。7年間の任期を終え1998年に帰国後、私はバレーボールについて異星人になっていたと思い知らされる事になります。駐在員時代はほとんどTV観戦していなかったバレーボールの国際試合の中継を数年ぶりに見ていた時に、ユニフォームの色が違う小柄なプレーヤーが一人、コートの中にいるではありませんか。テレビアナウンサーが「リベロ」って、んー何それ? 更に、サーブ権制度がなくなっていたのを知り、加えてサーブはエンドライン後ろのどこからでも打てる様になり、男子はアタックサーブが主流になっているではありませんか。更に更に、現Vプレミア・チャレンジリーグの前身であるVリーグ(プロ化が計画されたが不景気によるスポンサー側の都合で断念)が1994年に発足した事すら知らなかったのです。
 再度海外ニューヨーク赴任を経て帰国後、2000年の初め頃に全日本インカレで男子が遠征しているのを知り東京体育館に足を運んでみると、38期の佐賀野君が男子監督をされ、彼と同期の弘保君(ひろやす、教体)と冨田君(本部)が別の試合の主審をされており、立ち話をするチャンスに恵まれました。その試合(対戦相手は忘れました)で広大男子が敗れ肩を落としているのを見たので、元気づけようと電車で2駅の新宿歌舞伎町の安居酒屋に厳(いか)ついジャージ姿男子10余名を連れて行った事もありました。(危険な遊びはさせていませんのでご安心を)因みに現男子監督の和泉君もその一人であったそうです。
 その後は10数年間バレーボールに触る事がなく、運動と言えば2週間に一度ゴルフをする程度だったのが、2年前に突如心の中にバレーボールのスイッチが入りました。娘がバレーボールのクラブ活動を始めたのです。彼女の中学校のスポーツクラブの総称が「Phoenix」と広大のそれと同じで親近感も湧き、バレーボールのサブコーチを引き受ける事にしました。本当にゼロから始める子供を教えている時も試合を見ている時も、つくづく強烈に感じるのですが、バレーボールは審判の笛がなり、サーブから始まり、当然次にサーブレシーブです。つまりサーブとサーブレシーブが如何に大切で試合の勝敗を左右するかと言うことです。(これを読んでいただける方々には部活指導をされている先生方が少なくないと思いますので、参考までに)私の娘はインタナショナルスクールに通っていますが、そこでは one sport for one season を基本とし、1年間で3種目くらいの違うスポーツクラブを自分で選択し、高校、若しくは大学から専門スポーツに特化し磨きをかけるのが一般的です。この複数種目に触れさせる方法(考え方)は子供の発育段階を考慮すれば、なかなか道理にかなっており、長い将来人生に向けて非常に合理的である様に私には思えます。
 この考え方がある米国では、例えばマイケル・ジョーダンは一旦バスケットを引退してメジャーリーガーを志したり(その後またバスケに復帰)、タイガー・ウッズは大学時代からゴルフでは名を知らしめていましたが、同じ大学時期に野球選手でスイッチバッターの経歴を持っています。(日本なら、いわば二つの体育会系部活を掛け持ちってところでしょうか。)などに表れている様に感じます。今年は4年に一度のスポーツの祭典オリンピックがロンドンで開催され、毎日熱帯夜の中で冷房をかけてバレーボールは勿論、サッカー、レスリング、柔道、などなど早朝まで力が入って寝不足に陥っていたのは私だけではないはずです。全日本女子は(まさかの?)銅メダル28年ぶり、2011年ワールドカップでも4位、更にその前の年2010年世界バレーの火の鳥Nippon 38年ぶり銅メダル(その初戦ポーランド戦は子供の学校の親子供40人くらいで代々木体育館に観戦、2セットを落とした後の3セット挽回連取、その勢いがホームである事も追い風になったようです。)
 結果、ロンドン五輪では38個のメダルと、メダリストの銀座のパレードを見てオリンピック招致が少し前進したのではと感じられた瞬間でした。今年、五輪誘致で競合するトルコのイスタンブールに行く機会がありましたが、感じるのは近年の新興国はとかく勢いがあり、手強い競合国になりそうです。(もう一つの競合、債務問題に大揺れしているスペイン・マドリッドはバルセロナ五輪が1992年と近過ぎるので難しいのでは?)いずれにしろ、来年2013年9月7日の国際オリンピック委員会(IOC)総会において、IOC委員の投票により決定されます。
 今年の夏に広島で同窓会があったので、西条キャンパスと旧本校キャンパスのあった千田を卒業以来はじめて訪れました。旧本校千田キャンパスの正門は名前を変えて未だ残っており、それをくぐると昔の主な建物ではレンガ造りの理学部を残すのみで、正門の左側に位置していた本部体育館、その奥にあったプール、テニス場、プレハブ広大生協、体育会バレーボール部の溜まり場だった二食(第二食堂)は40階建てくらいの大きなマンション2棟に立て変わっていました。また、西条キャンパスではOBおよび父兄の方々からのご寄付により購入されたマイクロバス「広島大学体育会バレーボール部」号が広い駐車場の中にポツッと駐車されているのを発見し、皆様方の現役部員に向ける熱い想いを感じることができました。最後になりますが、広大体育会関東支部の藤松支部長はじめ、大前様、泊里様(以上、自動車部 OB )、深瀬様(ハンドボール OB )、山戸様(空手部 OB )、そして広大東京オフィス中島所長他、部活の垣根を越えてバレーボール全日本インカレの応援に駆けつけていただき、紹介を兼ねて心より感謝しております。 (バレーボール部関東支部長の谷君は電通に勤務しており、近年はサッカー担当でアラブ諸国へ出張しっぱなしです。)
 そして、体育会系を連想させ現役部員らしい、めーいっぱい大きな字で書かれた手書きの宛名の茶封筒に(この電子媒体時代の中で)わざわざ製本をして届けられる「コートの仲間」を楽しみに待っております。現役部員、監督・コーチ陣、そしてOB・OGの方々の、今後の益々のご活躍をお祈りいたします。

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